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2004年10月 4日 (月)

イチローに思う

すごい男がいたものだ。 イチローである。
記録の偉大さは言うまでもないが、それを成し遂げるために彼が行ってきた事々、それがどれほどすごいことなのか、それに思いをはせている。

彼の偉大さは、野球に対する限りない愛情を原動力とし、それを軸にして、今なすべきことは何か、と言う命題を常に客観的にとらえ、フィジカル面メンタル面を含めて自分をベストの状態に維持したということ、いや、維持するという努力を日常的に続けたと言うこと。  これは常人にできる技ではない。  彼を修行僧にたとえる人がいるが、なるほど・・・と感心したりする。

私の敬愛する作家である司馬遼太郎氏は、事を成す人物に不可欠な要素として、「気概」と「リアリズム」をあげている。  気概・・・どのように解釈すべきか、人により様々であろうが、敷衍すると、情熱、思い、理想、夢、愛情などというキーワードがあげられそうである。  体の中からわいてくる、強い何か・・・それを実感するとき、体中に力がみなぎってくるような、そのような何か・・それが気概というものなのかもしれない。

事を成そうとするときに、夢を実現しようとするときに、それを動かすエンジンが気概や情熱であるとするならば、舵を切るのはリアリズムであろう。  リアリズム・・・どう言うべきなのか?  現実認識、現状把握、とでも言うべきなのか?  つまりは、物事が動いている、その根幹にある原理はいったい何なのか?  それを主観や思いこみを廃して、客観的に、冷徹に見通す眼、とでも言うべきなのか。  

熱くなればなるほど、それに対するカウンターバランスとして、常に冷徹な現状認識が不可欠となる。  熱さばかりが先走ると、それは必ず自己肥大化し、コントロール不可能なものとなり、やがては迷走を始める。  情熱という名の独善が、周囲の冷たい視線の中を走り続け、やがては力つき、自己満足というレッテルを貼られて消滅してしまうことになる。  高い理想や夢を持ちつつも、周囲の言葉に耳を傾けなかったために挫折していった人を何人も、いやと言うほど見てきた。  やるせない思いになる。 

また、逆に、リアリズムばかりに偏ったときには、世の中の矛盾や不条理の枠内に閉じこめられてしまい、必然的結果としてシニカルな物の見方しかできなくなる。  少々くたびれたサラリーマンが吐く常套句 「これが現実だよ」 という言葉には、何かそこに暗い穴が開いているような、何ともいえないむなしさを感じる。 ニヒリズムの中で生きている意味があるのか?  少なくとも、そのような雰囲気をまとった人間に、私はいっさいの魅力を感じない。  最近流行の自分探しは、これらに対する生理的な警報がその背景にあるのかもしれない。

気概とリアリズム。  いずれに偏重しても、行き着く先はおそらくあまり望ましいところではないだろう。  高い理想を掲げ、それを実現するための気概、情熱を持ち、しかし、それを実行する過程において現実がどのように動いているのか・・・それを常に客観的に把握し、現状に立脚して取りうるベストな方向性を常に考えていく、といった徹底したリアリズムの追求、これらが車の両輪のように絡み合ってこそ、初めて現状を打破し、夢の実現に至る道が開かれるのではないか?

常にこうありたいと思っているのだが、日々の生活の中で、やはり流されてしまうことが多いのが現実である。  流れに棹させば流されるとは、古の文豪の言葉であるが、これは時を越えて普遍のものであるのだろうね。  であるが故に、イチローの偉大さが際だつのである。  

一万冊のビジネス書を読むより、イチローの打席をみたいと思うし、インタビューの一言に耳を傾けたいと思う。 自己実現はノウハウではなく、地道な日常を積み上げていった先に見えてくるものなのだろう。  積み上げる情熱を持ち続けるように、また、積み上げる方向を誤らないように、イチローの打席を見ながらそのようなことに思いをはせるのである。  いや、すごい男がいたものだ!

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